2013年の東京五輪開催決定時は、50年前に1回やってるのだから他の国に譲ってもいいんじゃないかと思っていた。どうせスポットライトが当たりチヤホヤされるのはアスリートと、マスコミとか大企業スポンサーエリート層が盛り上がって儲かるだけ。自分には関係ないとニヒルに我関せずだった。

ただそれはインバウンド前だったからで、そこからのインバウンド勃興は凄まじいものがあり弊社でも御多分に漏れず恩恵を受けた。クールジャパンは日本そのものに魅力があったのを日本人が改めて気づかされたがそれに火をつけるきっかけになったのはやはりオリンピック開催決定だろう。  

今でも後悔している、高校時代の体育祭に参加しなかった。多感な時期で体が小さくがりがりな体を見られるのが嫌だったという取るに足らない理由だが、運動神経も良くなかったしイベントに進んで参加するような男子ではなかった。

今回の観戦チケットも自分では取得してないのだが、でもやっぱり開催してほしいオリンピック。感動するもの、日本人が金メダル取る瞬間とか興奮するもの。 
父親が1998年の長野オリンピックの映像をvideoに録画していくつも保存していたのを見て国民にとって誇らしいことなんだなと子供心に思った。 
もはやオリンピック以外に日本のビッグイベントは当分ないのではないか? 

政府ではなくこの国の可能性に期待することって何かあるだろうか。国民が何かに一体感を持って臨むのは珍しいことになっていると思う。様々なことに興味が分散してるこの多様性の時代にそれが全国民レベルならなおさら。一体感を感じることは人間も動物的な本能で快感を得られる誰しもドーパミンやアドレナリンが噴出すると思う。無料でそれが得られるエンターテイメントなのだからお得ってもんだろう。

日本国民であるナショナリズムは強くないけど、多分死ぬまで日本で過ごすだろう。 当たり前過ぎてよく考えないことだ。グローバル化した現代で他の国に移住するという選択肢もなくはない中で日本にこれからも住み、生活し、仕事をする理由は

・言語の障害がない
・仕事がある
・社会の仕組み、生活の勝手を熟知している
・家族がいる 

随分と日本にどっぷり浸かってしまったものだ。国外へ出たいという気持ちもかなり薄れた。若い頃はなぜ上記の全てがないにも関わらず行こうとしたのか。冒険心があった? 未知の異国に興味があった? ワーホリに行った先輩に聞かされた話に心躍った? 

ニュージーランドで羊毛を刈るアルバイトで羊が血だらけになってしまったとか、ハンティングに誘われ獲物のカンガルーを撃ってしまいトラウマ並みに後悔したとか、カジノでディーラが客を盛り上げてそこにいる皆が仲良くなったとか、英語が全く話せなかったのに現地の仲間とそんな生活をしていたらペラペラになり以降世界中を旅するのが楽しくて仕方なくなったとか。そんな話を饒舌にされたら、23歳程度の悶々とした青年が聞けば居ても立ってもいられなくなるのは自然だろう。

ビザまで取ったけど、あの時ワーホリで留学していたら人生どうだっただろう。しなくて良かったと思い込んではいるが本当にそうだろうか。グローバル化のもっと大きな波に乗って日本に凱旋していたかもしれない、国際結婚なんかしてそのまま移民として生きていたかもしれない。昔から人生に無難を求めないという性格だったから。

 
好機としての可能性と能力としての可能性がある。今は後者だな。自分の行動力が、行けるから行く、出来るからするになってきている。昔は出来ないかもしれないけど行くだった。いや出来ないかもしれないは考えずにこれだ!っていうやりたい欲求が最初にくる感じだった。その勢いが留学とは別の方向性の起業に結び付いたのは1つの結果だろうしその決断は間違いなかったと今は思える。 

若い頃の勢い、無鉄砲さを適切無難な進路ではなく、実現不可能とも思えるハードルの高い大志に向ける。例えば移住とか起業とか。困難でタフだから若い時にしかできない、そして不都合な真実をあまり知らない。起業生存率が10年で5%とか、粗利益率1%の商売なんて難しいことをやるなんて、セオリーからは外れている狭き門を最初から知っていたら私はやらなかったかもしれない。 

確率の低いチャレンジに挑むのは若い頃の特権であるが、若さゆえの無知が可能性を広げることも往々にしてある。失敗も多いがなんでも“やってみなはれ”と見守ってあげる大人になりたいしむしろ“お前は出来る”と洗脳するくらいの教育者になりたい。 

賛同者は一人もいなかった、孤独だったな。起業してうだつの上がらない息子に家族でさえ痺れを切らして出ていけと言い放った。母親とか彼女とか、起業なんて話は特に女性は現実的なので真に受けない印象がある。かといって男性の誰かが支援してくれたのかといえばそうでもない。基本的には胡散臭い夢物語の話だ、真剣に聞く者はいない。ましてや出資や投資なんて馬鹿げていると言われかねない。
だからこそエンジェル投資家やベンチャーキャピタルは当たればデカいのだが。

江副浩正曰く「年少の天才芸術家はいるがその年の大経営者はいない」
確かに事業は年の功も影響するが、やはり若さは圧倒的に武器だ。スポーツと似ている。競争相手との闘い、自分との闘い、老いとの闘い、不運との闘い・・・。
その他多くの現実が年を重ねるほどにやらない理由として増えていく。 

25歳の起業も15年が経ち、今ではおかげ様で人様の人生や資産を預かるくらいの立場になった。商売は水物でどう転ぶか予測できないし好きなことをやれている夢のような、恵まれている環境だけでも儲けものと思っている。 

尾崎豊が言っていた。
「人生とは何の為にあるか、自分のやりたいことのためにあるんだ」と。

自分のやりたいことは誰にも相手にされない、見向きもされないのは普通だ。自分が楽しければ良いのだからそれで良いけど、事業として世間に問うのであればそれはきっと利潤という反応がなければ楽しくないし続かない。

業績を上げ信用を得れば、誰も彼もが取引したいと申し込んで来てくださる。何もしなくても稼げるようにもなるが、それまで何をやっても稼げない長く辛い期間を耐えしのがなければならない、それが何年も何十年もかかることもある。

この哲学的な苦楽のコントラストにも魅かれ、私のやりたいことはやっぱり事業なのだろう、金儲け。四六時中考えれて面白いし単純に興奮する。他にこのように夢中になれることはない。お金を得て贅沢したいとかはほとんどないが、売上利益というスコアが上がる、上げるという状況はとても甘美で快感でしかない。これを経験した人は辞められないのだと思う。孫正義さんもきっと事業の虜でお金は十分あるのにずっと死ぬまで続けるのだろうな。私も出来れば死ぬまで事業を続けてやりきれたらと思う、そのためにはもっと加速上昇して飛行機が上空1万メートルを飛行するように、墜落しない安全圏、それを突破して無重力の宇宙へと出るように。それにはまだまだ高度が足りない。 

セミリタイアとか不労所得とか若い頃は憧れたが何もしないでどうするのだろう、退屈に違いないと思う。
例えば生活に困らない資産があったとして何をやっても良いなら、当然やりたいことをやる。10億円あったら何をするかという質問があるが、その答えが真の自分のやりたいことらしい。

よく展示会に行く。フランチャイズフェアというのに行ったとき、ここに展示されているすべてのフランチャイズ事業つまりは儲け話に、金に糸目をつけない大富豪なら全てにチャレンジできるなと思った。もちろんそんなことをしても成功する確率はかなり低いがそれを体験することを、世の中のエンターテイメントに飽き足りた大富豪なんかは悦に浸る喜びがある人もいるのではないか。
結局真剣になれる体験が貴重で価値あるもの、その為に生きているのかもしれない。だから私はフェラーリやロレックスは買わないだろう、多分。皆さんはどうですかね?

人と関わるのは好きじゃないと思っていた。が、最近は思う。本気で人と向き合うのが実は好きなのかもしれない。中途半端に関わると鬱陶しいだけだが、真剣にお互いの利益や成長のために切磋琢磨して困難を乗り越えて目標を実現するというのが事業にも必要だ、だから楽しい。お金を支払うという行為は人間にとっての一番信用を表明する行為なので多くのお客様からそれを受けられ、会社を通じて社員を含めた多くの取引先へ真剣な思いを、お金を支払うという商行為を通じて表明する。お金って素晴らしいじゃないか、誰が金儲けなんかいかがわしいと言うのだろう。

勤め人時代の若い頃には大学やライフワークで経済を学んで、満を持して社会に出るも営業マンとしては見込み客に相手にされず商談すらできずまともにビジネスができないで辛酸をなめた歴史がある。会社として実力がつき多くの人に相手にしてもらえる、私には相応のスキルはなく人間性もないが、それがサービスのたとえお金のバックボーンが威力だとしても嬉しい。だからお金が好き。それは人を真剣にさせるから。それを素直に喜ぼう。